本蓮寺


第XI番目の箱に収められているイヌマキの標本(MAKS1832)のラベルに、“in Nemoribus Templ Honrensi ad Nagasaki”と記されていることから、本蓮寺に植えられていたものであることがわかります。

1858年7月、日蘭修好通商条約が調印され、それに伴って永久国外追放処分されていたシーボルトの再来日が可能となり、シーボルトは30年ぶりに13歳の息子アレキサンダーを伴って来日し、しばらくの間、長崎市内の本蓮寺に滞在していました。その時、境内に植えられていたイヌマキを採集したと思われます。

1591年にローケ・デ・メロベレイラが住民のために建てた病院であるサン・ラザロ病院と、その横にあったフランシスコ派の司祭バウチェスタが建てたサン・ジョアン教会は、キリシタン禁制となった翌々年の1614年に焼却されてしまいました。その跡地に建てられたのが本蓮寺(左写真)です。この寺は長崎駅から10数分ほど登った丘陵地の中程にあり、幕末、勝海舟が海軍伝習生として滞在していた場所としても知られています。

1945年、長崎市に投下された原爆のためにかつての本蓮寺は消失してしまいまいしたが、古い伽藍の様子は1987年朝日新聞社から発行された『甦る幕末』に載っています。


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