シーボルトとその標本


シーボルトが生まれたドイツのヴュルツブルクはライン川の支流の一つマイン川沿いにある小さな町です。シーボルトはこの町の一角を占めるヴュルツブルク大学で医学を修めました。シーボルト没後の1882年には、彼の業績をたたえるべく、この町の小さな空地に胸像が建てられました。高さ20m以上にもおよぶ樹々に囲まれた胸像は、現在では市民にもほとんど注目されることなくひっそりと置かれています。このシーボルトの胸像の台座には、陣笠をかぶったり胴乱を下げた子供の天使像が彫られています。このような天使像を伴った胸像はおそらく世界でもこれ一体だけで、日本研究、とりわけ植物研究にのめり込んでいたシーボルトの胸像を飾るに相応しいと思われます。

シーボルトが初めて来日したのは、1823年23歳のときでした。当時、オランダ人は長崎の出島に居住させられていました。それは軟禁と言っていいほどの状況だったため、大抵のオランダ人は一日も早い帰国を望み、次の船で戻っていったのでした。そんな3000坪ほどの人工島で、シーボルトは約6年間(1823-1829年)を過ごしたのです。シーボルトは出島内に造った小さな畑に植物の種子や苗木を植え、成長させた後に標本に作り上げました。

シーボルトの胸像は鳴滝塾跡(長崎市鳴滝)にもあります。ヴュルツブルクの胸像の顔立ちと似ていますが、より優しい顔つきの胸像です。1824年から1828年のわずか5年間ではありましたが、シーボルトはこの鳴滝塾を医学教育や日本研究の拠点とし、彼を慕って長崎へ勉強に来た日本人の若者に大きな影響を与えたのでした。
シーボルトの胸像は、オランダのライデン市にあるライデン大学付属植物園にもあります。“シーボルト事件”(1828年)により、1829年に日本から追放されてしまったシーボルトは、このライデンに居を構えて、日本から送った膨大なコレクションの整理につとめました。『日本』『日本動物誌』『日本植物誌』などの不朽の名著が出版されたのは、1832年から1850年にかけてのことです。シーボルトは、標本だけでなく生きた植物も大量に持ち帰りました。1596年に開園したこの植物園には、シーボルト自身が持ち込んだと云われているアケビ、フジ、クサボケ、オニグルミ、サワグルミなどの古木が今も元気に育っています。

1858年には江戸幕府がシーボルトの日本入国禁止を解除し、翌1859年、63歳になったシーボルトは再び長崎の地に立つことができました。1861年には幕府の招きを受け江戸に赴きました。翌1862年に長崎に戻り、帰国の途についたシーボルトは、1866年にミュンヘンにおいてその生涯(70歳)を閉じました。現在は、ドイツのミュンヘン南共同墓地でひっそりと眠っています。

ライデンのオランダ国立植物標本館ライデン大学分館には2回の日本滞在中にシーボルトが集めたおよそ2万点の植物標本が保管されています。

シーボルトの標本は鎖国中の日本における採集品であるため、たとえ葉1枚だけの標本であっても、当時のヨーロッパの博物館にとっては垂涎の的でした。かくしてシーボルトの植物標本は各地の標本館との交換標本として大いに利用されました。そのような経緯から、ユトレヒト大学の標本館にも、隣国ドイツのミュンヘンにあるバイエルン州立標本館にも、シーボルトの植物標本があります。牧野標本館が所蔵しているシーボルトコレクションのもともとの所有者は、ロシアのコマロフ植物研究所でした。ライデンの標本館から東京大学総合博物館に寄贈されている一連のシーボルトコレクションは、オランダのフローニンゲン大学が所蔵していたものです。この中には、植物学者のハースカル(Justus Carl Hasskarl)が個人的に所有していたものも数多く含まれています。

このようにシーボルトの標本は世界中に分散しているため、現在どの標本館がどのような標本を所蔵しているかが明確ではなく、それらを調べ上げることが今後の課題です。


著作権:牧野標本館、2004