平井海蔵の標本平井海蔵についてはシーボルトの『江戸参府紀行』に「・・・・江戸出身の身分の高い医師湊長安、安房出身の若い美馬順三、さらに三河から来た平井海蔵、岡研介その他、あちこちの国々から来た医師や学者がいた。・・・・・」と記されていますが、他の人達がよく知られているのに比して、どんな人物かわかっていません。きちんとした根拠がないままに、通説としては「文化6(1809)年ム明治16(1883)年 蘭学(シーボルト門下)、・・・・・早くして長崎遊学を志し15歳のころ長崎に赴きシーボルトの鳴滝塾に学んだ。江戸の湊長安、阿波の美馬順三らと学び、三河の平井海蔵の名がシーボルト研究書に散見される。帰国した後家督を継いだが、長崎からの帰途シーボルト事件の波及を恐れ紀州和歌山に退いて、留学中に蒐集した蘭書をすべて焼却したと伝えられる。晩年は長崎留学のことについてはほとんど語ることもなかったために、彼の蘭学の学習状況や業績は埋没して現在に至っている。・・・・西尾の唯法寺に葬る」 『日本洋学史人名辞典』(1994年 柏書房)があります。 オランダ国ライデン市の国立植物標本館の特別室(C-113)に、あまり知られていませんが、「平井海蔵標本帖」が保管されています。 『平井海蔵標本帖』は4冊からなっており、各册とも表紙は濃紺色で縦28cm、横24cmで、開くと標本が和名のイロハ順にしたがって貼られています。1冊目は44ページで150点の標本、2冊目は50ページで170点の標本、3冊目は50ページで195点の標本、4冊目は49ページで184点の標本が貼られています。 残念ながら「伊藤圭介月昔葉帖」に較べると、標本の完成度は低く、また保存が悪かったせいか、標本がひどく破損していたり、剥がれていたりしています。しかも切り取られてなくなってしまった標本もありますが、それらのいくつかは牧野標本館のシーボルトコレクション中にあります。 =>平井海蔵標本索引 |
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