1636年に外国人(当初はポルトガル人であったが、のちにはオランダ人)の居留地として長崎に築かれた扇形の人工島で、面積は3969坪(凡そ13,000平方メートル)です。一本の橋で長崎市内と結ばれており、鎖国日本の唯一の貿易地として、また海外情報の窓口として重要な役割を果たしていました。シーボルトが出島にやってきたのは1823年、27歳の時でした。
当時、オランダ人は長崎の出島に、軟禁と言っていいほどの状況で住まわせられました。たいていのオランダ人は一日でも早い帰国を考え、次の船で戻っていったのですが、そんな4000坪ほどの人工島でシーボルトは6年間(1823-1829年)も暮らしたのです。現在の出島は全体が歴史記念場になっています。周囲が埋め立てられ、横を市電が通っているので、そこがかつて海内に造られた人工島だったとは思えませんが、それでも中に入ってみると、出島のミニチュアがあって江戸時代の様子を想い起こさせてくれます。
出島内で植えられていた植物
レイジンソウ(MAKS0002)
シーボルトは出島内に造った小さな畑で植物の種子や苗木を植え、成長させた後に標本に作り上げました。ラベルに“H.B.D”と記されていますが、これは出島内に植えていた植物を意味しています。出島の図を見ると、「花園」と書かれている場所がありますが、その場所こそシーボルトが1824年にバタヴィア政庁へ提出した調査活動の報告書の中で、「・・・日本へ到着した当初から、私は自然の全分野から珍奇物を収集し始めました。私はすでにヨーロッパで愛好してきた学問である薬草学を日本においても非常な勤勉と努力を持って研究し、昨年からは出島に自分の費用で植物園を設置し、つぎつぎと珍しい植物や注目すべきだと思われる植物を植えました・・・」(栗原福也、2000年)と記したほど、精魂傾けて植物を栽培していた場所なのです。
決して広くはない出島において、シーボルトはこの花壇に様々な苗を植えたり、種子を蒔いたりして育てた植物を標本にしたのでした。
ラベルに"H. B. D." あるいは"in H.B.Decima"と記されたラベルが添付されている標本はこれ以外にもアヤメ(MAKS2191)、オオバギボウシ(MAKS2352)、キダチノテンモンドー(MAKS2312)、キハダ(MAKS0337)、タムシバ(MAKS0023)、ツルテンモンドウー(MAKS0523)、ナツズイセン(MAKS0510)、ヒムロ(MAKS1847)、フクジュソウ(MAKS0006)などがあります。
=>出島の標本索引